私も日本も再生が不可欠だ

日々の雑感です。興味を惹かれたこと、やるせない思い、昔話など思いついたままに綴ります。

努力と矜持

昨日、箱根駅伝で優勝した日本体育大学のインタビュー番組。
その中で、何度か「四年生の矜持」という言葉が聞こえた。
三年生がキャプテンに据えられる中、果たして四年生の存在意義とはと悩んだ学生も多かったと思う。
そんな彼らを支えたのは最上級生である矜持とそれを裏付けるための努力だったのだろう。
敬意を表したい。

先の選挙で自由民主党が大量の議席を確保することとなり「捲土重来だ」と息巻いているが。
その自由民主党憲法改正を行いたいという。
党のホームページのコラムには、「わが党は、結党以来、「憲法の自主的改正」を「党の使命」に掲げてきました。占領体制から脱却し、日本を主権国家にふさわしい国にするため、自民党は、これまでも憲法改正に向けた多くの提言を発表してきました。」と書かれている。

常に疑問に思うのだが「改正」というのは「改め正す」ということ。では今の憲法は正しくないのか。
どういう経緯で誰が作ったということはここでは述べまい。
内容のみに着目すると、これほど未来志向である憲法が1946年に作られたということに驚きを禁じえないのである。
未来志向といったのは、60年以上経過した現在でもこの憲法の理念を達成できていないという意味だ。

憲法十三条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
司法立法行政の三権は国民の個としての自由に対して侵犯を許さないという宣言であるが、いまだやりたい放題に侵され続けている。
二十一条の通信の秘密などは、ご丁寧にも「通信傍受法」という憲法違反の法律まで作って官憲の都合の良いように捻じ曲げられてしまった。

と、司法行政にとっては目の上のたんこぶのような憲法
改憲草案は読売新聞が出したものが有名であるが、自民党も独自に作っていたようだ。
内容については個人個人が考えるべきことであろう。

私も一読したが、愕然とした箇所がある。それは基本的人権の部分でも戦争放棄の部分でもない。
草案の第十条「日本国民の要件は、法律で定める」という一文。
現在の憲法では「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」となっている箇所。
旧欽定憲法では「日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」。
些細な違いで「文語調を改めただけ」と思う人も多いだろう。

それはとんでもない勘違いだと私は思う。
憲法の保障を受けられるのは日本国民であり、保障を受けられる国民には当然義務も伴う。
義務を果たしてこそ、日本国民なのである。何もせず自動的に日本国民とはなれない。

明治22年に欽定憲法を草した人たちも昭和21年に現行憲法を作った人たちも当然それを踏まえていたからこそ「たる」を入れたのだ。
そこには日本国民であることへの努力の必要性と、日本国民でいられることへの矜持が感じられる。

自由民主党の草案はそのどちらも省くという。
愛国心があるならば、絶対にこのような改訂は行わないはずだ。
このような基調のもとに作られた草案である。全文を読まずとも内容についてはおおむね察しがつくであろう。
憲法を改訂するにせよ、この草案にはまったく賛同できない。