私も日本も再生が不可欠だ

日々の雑感です。興味を惹かれたこと、やるせない思い、昔話など思いついたままに綴ります。

日本の教育界の過失

自らの興味もあり、また仕事の一環でもあるので日本の歴史を紐解くことが多い立場の私ですが、第二次世界大戦を境として本邦の教育事情は大きく変わったように感じます。

私は、戦後の学校教育を受けており、それが当たり前だと育った人間ですが戦前の日本のそれは、歴史を知れば知るほどまったく異なった印象を受けます。

天皇制絶対視のことを申しているわけではありません。
もっと教育システム寄りのことです。
昔は学校で何かを教える人を「教師」といいました。
その単語に使われている「師」とは日漢とも同じ意味で「Master」のことです。

翻って、現代では学校で物事を教える人たち自らが師ではなく「教員という公務員」だと称し赤旗を振って、自らを「社会システムの中で単なる月給稼ぎの哀れな労働者である」と公言してはばかりません。
果たして、教育者というのはそういうものでよいのでしょうか。

戦前は高名な師には感銘を受けたと遠くから訪れて弟子になりたい、門下生になりたいと思う向学の士が集まって自然発生的に学校ないしは塾が成立しておりました。
現代は学校教育は押し付けで、「師」として仰げるだけの価値ある人に師事することは選択肢としてはかなり稀でしょう。

このことは将来の日本を担う若者にとって悲しむべき現状ではないでしょうか。感銘も共鳴もできない人間に、まして賛同さえもできないつまらない階級闘争に身をやつしている単なる精神的貧乏労働者に教えを請うしか道はない。
現代の日本の若者の悲劇はこんなところにあるのかも知れません。

本日の論点は、それを述べようとしたわけではありません。
彼ら青少年は公務員の教員が思っているよりずっと成熟した素敵な考えを持っている、そういうことを述べたかったのです。

彼らに幸あらんことを!

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読売新聞9月3日、投書欄より全文引用転載

「尊徳の教え胸に刻む」
高校生 小笠原正博 15 (岩手県花巻市
 学校で江戸時代の農政家、二宮尊徳の思想についての講演会があった。建学の精神には、尊徳の教えである「勤勉」などの言葉が入っている。
 尊徳の教えの中で、「右一歩、左一歩と怠らず、行けば千里の果ても見えるべし」という言葉が印象に残った。小さなことの積み上げが、やがて大きな成果につながるということを意味しているという。
 講演で学んだ言葉を胸に刻み、勉強にスポーツに研さんを積んでいきたいと思う。