本日の読売新聞より
編集手帳、社説ともに原発に対する世論を取り上げているが双方が同じ主題を用いるのはいつものことなのだろうか。
何度も表明しているように、私は反原発信者ではない。
逆に私は「脱原発」を声高にヒステリックに叫ぶ烏合集団の方が怖い。
かつて、日本はそのような道をたどった経験がある。
支那事変を経て太平洋戦争へ突入する、そんな時代背景にそっくりだ。
反原発をとなえない人間は、あの時代の反開戦論者と同様にレッテルを貼られるのであろうか。
沸点という定義がある。ある点を過ぎるとその物体は、その前までの状態とはまったく異なった位相をもった雰囲気になる。
今まで、同じように反開戦の共通項で語り合っていたはずが、ある日突然周り全体が開戦賛成に回り、逆に反開戦を語る人間が国家や国民にとって不誠実だという態度をとり始める。
あるいは、まるでいにしえの時より大東亜共栄圏を志していたかの様な自説を集会で披露し、参会者の大多数は短い首を小刻みに縦に振るのみ。家に帰って「今日は素晴らしい演説を聞き感銘した」と。
「今日、脱原発の集会に行って有名人が多数賛同していることを知り、自分もそう思うようになった」としたり顔で納得している愚衆との近似に愕然とする。
サイレントなマジョリティが存在しえる段階はまだ健全だが、日本人の国民性としてある点を過ぎるとあっという間に世の中が一色に染まってしまい、反論をできない雰囲気に被われてしまう事は悩ましい限りである。