私も日本も再生が不可欠だ

日々の雑感です。興味を惹かれたこと、やるせない思い、昔話など思いついたままに綴ります。

竹島について1

竹島の歴史はとても難解です。
単に韓国側の錯誤というだけではなく、大航海時代から植民地時代における西欧諸国がそれぞれの思惑が絡んでいたからです。

竹島の歴史を紐解く前にまず鬱陵島を知る必要があります。
鬱陵島は北緯40度東経138度付近にある島です。緯度はソウルとほぼ同じか少し南です。

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古くは日本や朝鮮の漁民が日本海で長期間漁を行うための足がかりとして使っており、竹島、磯竹島もしくは松島などという名前で呼ばれていました。その後、島は半島を襲う海賊の基地となってしまい、業を煮やした朝鮮王朝が島の海賊たちをを元からいる日本や朝鮮の島民もろとも朝鮮半島へ連行して移住させました。そのため、鬱陵島はしばらく無人島となったのです。

しかし朝鮮王朝の渡航禁止令にもかかわらず、半島からの密航者は後を絶たず多くの朝鮮人が不法に住み着きました。
しばらく経って江戸幕府の許可を得た日本人が同島に様子を見に行ったところ多くの朝鮮人が島を占拠しており対馬藩に解決を頼みましたが朝鮮王朝との交渉がうまくいかず、対馬藩は幕府へ訴えました。

渡航禁止令にもかかわらず多数の朝鮮人が占拠している旨を解決してほしいと朝鮮王朝に申し出ましたが、朝鮮側は取り合わず結局は実効占拠状態にある島を朝鮮のものとして認めてあげようという幕府の判断により島は朝鮮のものとなりました。

その頃西欧諸国から宝物探索船が多数アジアに来るようになり、当然日本海にも跋扈するようになりました。
もちろん鬱陵島にも上陸しました。彼らの間で島の名前はArgonaut島と呼ばれておりました。近辺で探検家(Argonaut)が縄梯子をなくしてしまったためです。

実はこのあたりから竹島の歴史がこんがらがってきます。

(続く)