私も日本も再生が不可欠だ

日々の雑感です。興味を惹かれたこと、やるせない思い、昔話など思いついたままに綴ります。

対馬の仏像

対馬に限らず、日本には15世紀頃に朝鮮から寄託された仏像が多数存在する。
寄託というのは難しい概念だが、一時避難と考えてよいのではないかと思う。

当時、朝鮮は李氏の世となり、排仏運動が熾烈を極めた頃。
仏法僧は不可触賎民以下の地位に落とされ、仏教寺院の破壊や仏像の焼滅を国家国民を挙げて行った時代。

破壊を免れた寺院は売春宿として新たに開放され、庶民の爛れた娯楽の拠点となった。
そういった惨劇の中、非常に多くの仏僧が寺宝や本尊の仏像を携えて、難を逃れるため、日本へ渡ってきたのは当然の成り行きと思う
なんとしても疎開すべき事態であったのだろう。

時代が下り伝承も薄れ、寄託してある仏像がいつの間にか、日本のお寺の本尊になったことは時代の流れであり、現代ほど情報整理がされていなかった当時では十分ありえること。

そういう事情であるから日本のお寺は、寄託されていたと明らかな場合は朝鮮に仏像および寺宝を返却すべきなのである。
預かっていたものを自らのものとして主張するのは正しくない。
居座り泥棒と一緒だ。

相手が金銭的価値しかそれらに見出していないという意見も、また間違いである。所有者がそれらをどう扱おうが当事者以外知ったことではない。

今回の話には、落ちがついていて、無断で持ち帰った仏像が実は後世の贋作だったということ。
そんな間抜けな結末になるくらいならお互い、ちゃんとやったほうが結果的に良い方向に向くのではないかと思う。

とにかく寄託されたものは、返還要求があれば返すべきである。
そして、必要なら600年間の保管料を請求すればよい。