靖国神社考・・再掲
先日、純金製の毛沢東主席像に拝々する中国人達の映像が流れていた。像の前に跪き手を合わせて上下に振る。中国人の典型的な宗教的拝礼の姿である。毛主席はいまや神と変わらぬ存在となったらしい。
三千万余。毛主席の文化大革命の名の下、処刑された民衆の数である。同様の誤った粛清がもしも過去に日本で行われたなら、これらの無辜の霊を慰めようとするだろう。おそらく独裁者の純金像を作るよりも殺された人々の慰霊碑を立てて手を合わせるのが日本人なのだと思う。
見た目は同じに見える黄色人種であるが、宗教的世界観がまったく違う民族。
互いの宗教観を理解しあえる日はいつになるのだろう…。
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中国には日本の神社に当たる存在はない。
神道がないので、当たり前といえば当たり前なのだが、では、彼らの思考の中で、神社という存在はどのように処理をされているか。
中国にも神を祭る場所がないとはいえない。「廟」である。
それを示すものとして、手元にある梁實秋氏編纂の「最新実用漢英辞典」では文字番号1395「廟」の英訳が a temple, a shrineとなっている。
そのため、奉られている御霊は大多数が一般人の兵隊さんであることが理解不可能であり、「廟」に祭られているのだから、日本人は兵隊さんをヒーローだと思っていると考えている。
中華街ではおなじみの風景であるが、旧正月には廟の前で大々的な祭りが催される。爆竹を鳴らし、派手な音楽をかけ、人々は長い線香を両手で挟んで上下に揺らし「拝々」をする。
日本の初詣もそうだが、中国で「拝々」するのは現世利益のためだけであり非常に生臭い。
一国を代表する総理大臣がA級戦犯も合祀されている靖国神社に参拝するというのは、中国人の頭の中では中華街のお祭り同様のにぎやかさの中で「総理大臣がA級戦犯さえヒーローとして祭られている靖国廟に現世利益を求めて拝々にいった」と翻訳される。
この宗教観の違いは、おそらく永遠に払拭できないと思う。
もし仮に今、東日本大震災で亡くなった方々の御霊を鎮めるために神社を建てようという機運が日本国内にあったとしても、日本人は違和感を感じないだろう。
ところが、中国人にとっては違和感だらけである。一般人を奉るということはありえないし、わざわざ「廟」を作ることは絶対にない。
そもそも、中国には鎮魂という概念がないのだから。
1941年に日米が開戦した日を明日に迎えるに当たり、戦争で亡くなられた兵隊さんに思いを寄せて記してみた