私も日本も再生が不可欠だ

日々の雑感です。興味を惹かれたこと、やるせない思い、昔話など思いついたままに綴ります。

いざ高遠へ(続々)!

橋を渡って二の丸へ入ると、桜の古木が何本も立っており、その季節には
さぞ美しい景観を楽しませてくれるのだろうなと思いました。

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本丸はさらに空堀に掛かる橋をもうひとつ越えた所。

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思いのほか、小さな本丸でした。ここも建造物などは残っておらず、小さな
神社と移設されたやぐらがあるだけです。

しかし、城跡から眼下には急峻な坂に藪、山本勘助が築いたと言われる
勘助曲輪まででさえ転げ落ちるような角度で、さらに城下から曲輪までも
かなりの標高があり、難攻不落といわれた所以が分かります。

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それでも、その昔、織田軍はここをせめて仁科五郎を滅ぼしたのです。
織田側もかなりの消耗を強いられたであろう事は想像に難くありません。
信長はここで攻め勝って後、僅か3ヵ月後に本能寺で亡くなっています。
高遠城もあと数ヶ月持ちこたえていれば、歴史も大きく変わったことでしょう。

その仁科五郎ですが、向かいの山に首無き遺体が葬られたといわれ、
五郎山と呼ばれているそうですが、どの山か分からないほど周りは山に囲まれています。

一通り城址を散策した後、下って勘助曲輪跡へ。


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途中にある進徳館跡。

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勘介曲輪は現在は、野球場兼駐車場となっており、その横にはかつての
大手門といわれているものが移築されております。

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さらに下った交番あたりが城下町だったとしたなら大手門へもかなりの
上りでさらに、本丸へは半ば登山のような坂を上らねばなりません。
昔の人の健脚にはいまさらながら驚かされます。

お昼もかなりすぎたので、昼食をと思い高遠の街へ行きましたが、あいにく
高遠ではその時間開いている食堂やレストランは見当たりませんでした。
時間も時間だったので、帰ることに決めて一路伊那へ。遅い昼食をとり
駒ヶ根に戻り貸切?温泉に入ってその日を終えました。

翌日はまず、伊那市創造館へ。行ってみると意外とこじんまりした建物。
しかし古文書保管庫は湿度温度完全管理で、すばらしく立派。
こうして保管されているからこそ、何百年も前の書類が残っているのですね。

さて、えらく達筆な書物を拝見させていただきましたがやはり、事前に
調べてあった情報以上のものは見つからず、結局高遠以前のことは
分かりませんでした。

創造館を後にして再度高遠町へ行き図書館にも行きましたが、やはり
関連のある情報は見つかりませんでした。
昨日とは違い、雨模様の高遠城址も中々乙なものでした。

結局、今回の高遠訪問では新たな情報は得られませんでしたが、綺麗な
空気と水、新緑、台風の中の幽玄な山々、静かな温泉。十分堪能できました。