いざ余市へ!
さて、いざ続きで余市へ。
は綺麗さっぱりと無かったことにされてしまったのです。
ある者は東京で、ある者は越後高田藩で。
会津若松は戦火で壊滅状態。藩も取り潰し。朝廷を守った自分たちがなぜ
朝敵扱いされるのか。理不尽さには藩士たちもさぞ悔しい思いをしたことでしょう。
渡った者などいろいろです。
一方、会津松平公の幼子には新たな藩を起こすことが許されました。
飛び地が領地でした。
旧藩士は幼公に従い斗南への移住を希望したとのことですが、28万石の
会津藩士とその家族全員を僅か7千石の斗南で養うことは物理的に不可能です。
詳しいことは省きますが、出来るだけ会津に残るよう通達があったという
ことです。それでも、かなりの数の戸数が斗南へ移住しました。
ある家族は陸路で、ある家族は新潟から海路で。大変な思いをして。
当然移住後も想像を絶する苦労をされたとのこと。
は散り散りとなってしまいました。
(続く)