私も日本も再生が不可欠だ

日々の雑感です。興味を惹かれたこと、やるせない思い、昔話など思いついたままに綴ります。

遥かなり我が家

「母がなくなった」
師走の半ばそう父から電話をもらった私は、外国の学生宿舎にいた。
父にとっての母は私から見れば祖母。
「無理に帰ってこなくてもいいから」父は告げた。
 
 
「いや、やっぱり一度帰る」
祖母は生前、私にとても良くしてくれた人だった。
帰らないという選択はなかったが問題は旅費。
 
 
当時は海外旅行も今ほど一般的ではなく、チケットはとても高い。
上の学校に安い学費と生活費で行けるからと父母がウルトラCで海外に送り出してくれたのだ。
その貧乏学生が潤沢な資金を持っているわけがない。
 
 
街の航空券屋で成田行きの最も安い外国の航空会社のチケットを確保し、早速空の人となった。
安いだけあって、成田に着陸したのは最終便扱い。空港も閑散としている。
そんな夜に電車で東京に出ても地理にも不案内である。
で、その日はやむ無く成田空港近くのホテルに深夜割引でとまった。
それでも「ホテル代とはこれほど高いのか」と冷や汗が出るほど。
 
 
さて、地の涯かと思われる我が家に帰るにはどうするか。
国内線のチケットも今とは違い、非常に高い。
それに当日券だ。空席があるかどうか。
 
 
私に残された選択肢はなかった。
鉄路で帰ろう。それも高い列車を使わずに。
もちろん、これ以上ホテルや旅館に泊まれるだけの余裕はなかった。
となると、野宿か。でも北国はもう冬だ。寒い。
 
 
スカイライナーで京成上野へ。
歩いて国鉄上野駅へ行き、どの列車で帰るか考える。
日中の列車を使うと、結局青森で夜になってしまい海峡を渡れない。
「新幹線なんか出来ないほうがよかった」
新幹線が開通したため青森行きの直通列車が極端に減ってしまったせいだった。
 
 
時刻表と首っ引きで乗れる列車を探す。
結局青森で野宿せず帰れる方を選んだ。
そう
夜行列車だ。
 
 
当時はまだ夜行列車が多く走っていた。
それでも、ほとんどが特急扱いで高い。
何とか見つけた列車は「急行津軽
上野から秋田経由で青森に抜ける列車。接続は悪いが連絡船にも乗れる。
午後10時39分。時間通りに動き始めた列車。所要時間は14時間。
座席は木製の旧型車両。もちろん寝台などではない。
 
 
大宮や宇都宮、福島など大きな駅ではしばらく止まる。
その頃には車内乗客はまばら。硬い木の座席に体を横たえる。痛い。
がたがた、がたがたと走って白々と夜が明ける。雪の日本海が見えた。
秋田駅のわずかな停車時間に掻き込んだそばの旨いこと。
 
 
二時過ぎに無事連絡船に乗り、海峡ラーメンで腹ごなし。
夕方に函館上陸。ここからがまた遠い。
寝不足と船酔いのボーっとした頭でルートを探す。
資金がもったいないので、やはり函館からも特急は使わない。
苫小牧に着いたときにはとっぷり夜も更け、寒い。
岩見沢行きの最終列車に飛び乗り、追分で降りる。
 
 
しばらく待って、懐かしい列車が来た。そう「夜行列車まりも」だ。
からまつの頃から道内の旅行では何度も使っている。
その頃はすでに石勝線周りになっていた。
楓駅で臨時停車しているときに外に。
間違いなく北海道の冬の森の匂いがした。
「やっと帰れたな」
まりもの中はあったかい。
無駄に疲れた身体を座席に横たえ、緊張も解けてうとうとと。
目が覚めるとなぜか海が見えていた。浦幌。
少し眠ったつもりが熟睡したようだ。
 
 
「もうすぐだな」
家に着いたのは朝も早く。
当然祖母の葬式も火葬も終わっていた。
ただ、涙は出なかった。列車の中でずっと祖母のこと思い出していたから。